「満月の夜、モビイ・ディックが」についての私見

文庫の小見出しに「人と人は完全に分かり合うことはできない」と書いてあって、その科白がどこで出てくるのだろうかと思ったのだけど、結局出てきませんでした。「認識に立ち」って書いてあったから出版社サイドが意図を汲み、考え出した言葉なのでしょうね。
この言葉は、ボクが好きだった女の子が哀しい顔をしながら言ったものと一緒だったのです。時は1998年だからこの本よりも早く言ったことになるのだけど。ボクは彼女を一生懸命判るように努力したのだけど、ボクの頭が悪いせいかうまくいかず、結果的に彼女はボクに絶望して去っていきました。
ただ分かり合えないからあきらめるのではなくて、少しずつでも分かり合うように努力することはすべきことだと思うんです。せめてフリッパーズ・ギターのように「分かりあえやしない」ってことだけでも。
今はボクに「あまり隠し事をしない」ってルールを決めているから、とにかく競馬の優先順位はかなり高いですよとは必ず伝えるようにしてます(苦笑)。ボクはボクの中で結構完成していて、それはそれで居心地がいいんですよ。ただまだ未だ見ぬ世界が必ずあって、それを見たいと思っています。その案内人が居てくれたらボクの人生はもっと楽しくなる筈なんですけど。

閑話休題。本の話だ。
大学の情景描写がまんまボクが通った大学でした。

  • 「中央図書館と農学部のキャンパスのあいだの芝生」
  • 「ぼくたちは大学の構内を西門の方へ歩いていった。(中略)いつのまにか工学部のキャンパスにさしかかっている。あと三百メートルほどで西門だ。門を出てしばらく行ったところに、大学前のバス停がある」
  • 「アパートは西門を抜けてしばらく行ったところにあった。隣はお寺でコンクリートの塀の向こうは墓地だ」

など、ボクも何度歩いたりチャリをこいだか判らない風景が描かれています。そこで「ぼく」と香澄(この話のヒロイン)が物語を繰り広げていたかと思うととても他人事とは思えず、感慨深くなりました。あと
「ぼくたちが作業をしている岸壁の向かいは競艇場になっている。かなり距離はありそうだが、途中に遮蔽物がないので、ボートが走っている様子はもちろん、電光掲示板の数字まではっきり見える。」
このボートを見ている人の様子もボクが自転車をこぎながら眺めていた風景でした。
話自体は「ノルウェイの森」をコンパクトにしたものでした(サイズ的にも感動的にも)。片山恭一さんには完成された物語は期待していないのですが、物語性を凌駕する感情のフレーズがあればいいなと思っています。とにかく今作は描かれた風景とともに良かったです。「セカチュー」には劣るかな、さすがに。