友達の話

pcが壊れていた1週間(軽症なのでブラウジングはできる。てゆーか修理に出してないので再発するだろう)、いろんなことがあった。3連休、ディープ引退、十数年ぶりに葬儀に出席するなど。
特に葬儀(厳密には通夜だけど)は緊張した。振り返ってみると20代をまったく葬儀に出ずに生きてきたのだ。人間関係の狭さだったり、仕事関係の親御さんの訃報には誰かに香典を持たせたというのもあるかもしれないけどね。ただ今回ばかりはボクも知っている人だったから、自らが哀悼の意を表するべきだろうと思った。
帰宅して塩をまこうとすると「現在はそんな風習ない」らしい。なんでも死は穢れたものではないので、清めるのはおかしいという考え方に立脚するそうだ。ノルウェイの森の「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」という一節を思い出した。これはもう20年前の小説。村上春樹の考え方というのが普遍的になっているなぁ、と思った。ボクはかなり取り入れてるのだけど(苦笑)。
閑話休題
友達から1通のハガキが送られてきた。出産をして、その成長の記録を綴った(メディアがハガキであるので自ずと限界はあるけど)ものだった。
ボクには友達が少ない。「忌憚ない話ができること、対等であること」を考えると、本当に少ないのだ。そんな中で彼女はひょんなことから出会い(実際は手紙だったのだが)、いろいろ環境が変わりながらも現在でも細く続いている。いや、そのハガキが来たから続いていることが「確定」したというべきか。
とにかく彼女は頭が良い。ボクがこのようなことを書いても1次元上の回答をくれるのだ。それに甘えてはいけないと思ってここ数年は過ごしているのだけどね。折角なので何らかの返事を書こうと思う。でも難しいんだね、一方通行の手紙に返事を書くって。とりあえずがんばってみようと思う。まずは自分のリアリティのために。